足利尊氏は、室町幕府を作った初代将軍として日本史に大きな影響を残した人物です。しかし最近では「メンヘラ」「変人」「サイコパス」と評価されることがあり、その実像が見えにくくなっています。
実は、足利尊氏は非常に複雑な性格の持ち主でした。優柔不断で感情的な面がある一方で、部下からの信頼も厚く、多くの人々を魅了する寛容な指導者でもありました。時には極端な行動を取ることもありましたが、それは南北朝時代という混乱期の中での選択だったのです。
彼を単純に「メンヘラ」「変人」「サイコパス」と評価するのは適切ではありません。なぜなら、そこには複雑な時代背景や、人間としての深い苦悩があったからです。
足利尊氏は何した人?
足利尊氏は1305年に生まれ、源氏の流れを汲む名門の家に育ちました。最初は鎌倉幕府の御家人として活躍していましたが、1331年に大きな転機が訪れます。後醍醐天皇が起こした元弘の乱です。
当初は幕府側の将軍として戦っていた尊氏でしたが、1333年に大きな決断を下します。後醍醐天皇の呼びかけに応じ、鎌倉幕府を裏切ったのです。尊氏は京都の六波羅探題を攻撃して滅ぼし、これにより鎌倉幕府は滅亡することになりました。
しかし、後醍醐天皇による建武の新政は武士たちの期待に応えることができず、やがて尊氏は再び行動を起こします。1336年に京都を制圧し、新たな天皇(光明天皇)を擁立。1338年には室町幕府を正式に開きました。
以後、尊氏は室町幕府の初代将軍として、京都を中心とした新しい政治体制を確立していきます。ただし、後醍醐天皇の勢力(南朝)との対立は続き、国は南北に分かれた状態が長く続くことになりました。
足利尊氏の性格はメンヘラ?
足利尊氏の性格で最も特徴的なのは、その優柔不断さと感情の振れ幅の大きさです。これが現代では「メンヘラ」と評価される原因となっています。
たとえば、戦いで劣勢に立たされると突然自害を試みたり、重要な場面で突然の出家を宣言したりするなど、極端な行動を取ることがありました。また、周囲の意見に流されやすい性格で、時としてリーダーとしての決断力を疑問視されることもありました。
しかし、そんな尊氏には誰もが認める素晴らしい一面もありました。それは驚くべき寛容さです。敵対していた相手でも許して受け入れ、財宝や恩賞を惜しみなく分け与えました。
この寛大な性格が多くの武将たちの心を掴み、室町幕府の基盤を支える大きな力となったのです。
変人でサイコパスなの?
「変人」や「サイコパス」という評価は、足利尊氏の複雑な人物像を極端に単純化したものです。確かに、彼の行動には一見して理解しがたい面がありました。
鎌倉幕府を裏切り、その後は後醍醐天皇も裏切り、さらには弟の足利直義とも対立するなど、彼の行動には一貫性が欠けているように見えます。また、後醍醐天皇を利用して権力を握るなど、計算高い面も見られました。
しかし、これらの行動は当時の複雑な政治状況の中での選択でした。南北朝時代は、武士と朝廷の力関係が大きく変化する転換期であり、誰もが正解の見えない難しい判断を迫られていたのです。
むしろ尊氏の行動からは、人間味あふれる感情の豊かさが伝わってきます。敵味方の区別なく人々を受け入れ、寛容な態度で接した姿勢は、冷酷なサイコパスとは正反対の性格を示しています。
好物はなに?
残念ながら、足利尊氏の好物に関する直接的な歴史資料はほとんど残っていません。しかし、当時の武士の食文化から、彼の食生活をある程度推測することができます。
南北朝時代の武士たちは、質素で実用的な食事を中心としていました。主食は米や雑穀で、味噌や塩で味付けした保存食、野菜、魚介類が日常的な食材でした。戦場に携帯する食事としては、干し飯や干物が重宝されていたそうです。
特筆すべきは、一部の資料に記された猪肉(ぼたん鍋)への言及です。寒い季節には、武士たちが体力をつけるために好んで食べていたとされています。尊氏も同様に、この料理を楽しんでいた可能性が高いでしょう。
また、室町時代には武士たちの間で甘味や酒も親しまれていました。尊氏は京都を拠点としていたことから、都の洗練された食文化に触れる機会も多かったはずです。宴席では、当時珍重された甘味や酒を楽しんでいたかもしれません。
死因は何だったのか?
1358年4月30日、足利尊氏は京都二条万里小路第で53歳の生涯を閉じました。『後深心院関白記』などの史料によると、死因は背中にできた腫れ物(膿瘍や腫瘤)だったとされています。
当時、尊氏は南朝との戦いや内部抗争(観応の擾乱など)を経て、室町幕府の基盤を固めるために奔走していました。この激務や長年の戦乱による疲労が、彼の健康を蝕んでいたと考えられています。
さらに、背中の腫れ物が悪化した際、当時の医療技術では適切な治療を行うことができませんでした。感染症や膿瘍の治療は非常に困難で、これが命取りとなってしまったのです。
尊氏の葬儀は京都の真如寺で執り行われ、その後、等持院で中陰法要が営まれました。彼の墓所は京都の等持院と鎌倉の長寿寺に置かれ、その存在は東西の地で大きな影響を与え続けました。
まとめ
足利尊氏は、日本の歴史上最も複雑で魅力的な人物の一人です。確かに優柔不断で感情的な面があり、時には極端な行動を取ることもありました。しかし、それは単なる「メンヘラ」や「サイコパス」として片付けられるものではありません。
むしろ彼は、人間味あふれる感情の豊かさと、人々を受け入れる寛容さを持ち合わせていました。そして、南北朝という困難な時代の中で、新しい時代を切り開く大きな役割を果たしたのです。
今日では、足利尊氏の行動を「変人」的と評価する声もありますが、それは彼の複雑な人物像の一面でしかありません。時代の荒波の中で苦悩し、それでも前を向いて進み続けた、魅力的な指導者としての姿こそが、本当の足利尊氏の姿なのです。